めんそーれ沖縄よじれ旅③「そして広島へ」 [めんそーれ沖縄よじれ旅]
いよいよ最終日
真夜中にふと、着替えもせずにベッドの上で寝ている自分に気づく。時計を見ると夜中の2時30分だ。身体が汗でべたべたしている感じがして、シャワーを浴びることにする。
隣の部屋からはM父さんと近所のSさんの陽気な声がしている。宴はまだ続いているらしい。
シャワーは少しぬるかったが、「そのうち温かくなるだろう」と、どんどん石鹸で身体を洗ったのだが、温かくなるどころか、どんどん冷たくなってくる。「いや、そのうち…」と、信じていたのだが、とうとうただの水となってしまった。「そうか、夜中はボイラーとまってるんだ」と気づいたのは、冷たい水で石鹸を洗い流したあとだった。いくら沖縄とはいえこれは寒い。風邪をひきそうな気がしたので、持ってきた服を目いっぱい着込んで、再びベッドにもぐりこむ。
12月28日の朝は、この3日間で最もさわやかな朝となった。いよいよ今回の旅も最終日である。幸いなことに風邪はひいてないようだ。M父さんと近所のSさんはやはり2日酔いのようで、おてんとうさまの光がとってもまぶしそうだ。
朝食が始まると、昨晩大活躍だった同級生Tちゃんが、みんなに冷やかされている。「結局、みんなとデュエットしたね」といって笑い、「近所のSさんなんか1mくらい離れとったよ」といって爆笑する。
今日はまず、昨日きた道を戻るかたちで、県道116号線を名護市へと向かい、許田インターチェンジから沖縄自動車道に入り、恩納村にある「琉球村」へと向かう。
それぞれの車は3日とも、同じメンバーが乗りこむこととなった。案内の人も昨日と同じ人だ。
移動距離が長く、だんだん退屈してきたので、またいつもの質問を始める。
「ブームっていうバンドの『島唄』って曲がありますけど、あれって沖縄の人が聞くとどうなんですか?」
実はこれ、すごく気になっていたことなのだ。沖縄出身でもないミュージシャンがヒットさせた、沖縄旋律とウチナーグチ(沖縄の方言)をふんだんに使った曲。沖縄の人はどう感じていたのだろう。
「沖縄風のメロディーを使っていますが、沖縄の方言の使い方が間違っています。年配の方は全然意味がわからないといっています。あの唄よりむしろ、沖縄では喜納昌吉の『花』なんか、よく歌われていますね」ということだ。まあ、喜納昌吉は地元沖縄のミュージシャンだが。
これをきっかけに、沖縄の音楽の話となり、N女史が初日に買っていた沖縄民謡のテープをカーステレオで聞いてみたりする。「みんなが知っているような曲」ということで買い求めたというテープだったが、案内の人に言わせると、「これはカチャーシーといって、お祝いの席で踊りを踊るときに使う歌」らしく、「沖縄の人でも歌える人は少ない」という。つまり、みんなが知っているような曲のテープではないらしい。
そうこうしながら石川インターチェンジで沖縄自動車道をおり、恩納村に入る。なぜか、上空をヘリコプターがひっきりなしに飛んでいる。遊覧飛行かとも思ったが、なんとなく飛び方がおかしい。何かの撮影のようだ。
「取材が来るなんて、私らも有名になったんじゃね。でも私、出演料高いのにねェ」などというO姉さんの冗談に笑いながら「琉球村」に着くとなぞが解けた。これからここにウッチャンナンチャンが番組のロケで来るらしいのだ。
ハブとマングースの決闘
恩納村周辺の西海岸とよばれる海岸沿いは、リゾートホテルが立ち並ぶ、沖縄を代表するリゾートエリアである。「琉球村」はそんなリゾートエリアの南端、多幸山のふもとにひろがる観光公園である。
ここには沖縄各地の古い建物が移築され、村として復元されている。また、ハブとマングースの決闘や、沖縄唯一の染物である紅型の工房、シーサーなどの沖縄ならではの焼き物を作る窯元、水牛車による手作りの製糖工場なども見学できる。
“琉球村・通行手形”と書かれた入村券をうけとり、中に入る。復元された村は、やはり赤瓦屋根の古い民家と、それを囲むテーブルサンゴの石垣が印象的だ。
入村するとすぐ「ハブとマングースの決闘ショー」があることを知らせる放送があり、ガイドさんに案内してもらって、村内にある「多幸山ハブセンター」へと向かう。
ハブとマングースの決闘は、まあほとんどがマングースの勝ちだ。もともとハブを退治するために持ちこまれたものだから、当然といえば当然なのだが、実に見事にハブの首根っこに噛みつく。ハブが身体に巻きつこうとするのをかわすのも実にうまい。今回の勝負(?)も、マングースの勝利に終わった。
決闘が終わると、入場者全員に「ハブ粉」がひとさじずつ手のひらの上に配られるが、あまり気持ちのいいものではない。結局、指先につけたわずかな粉を舌先でなめただけで、大部分は捨ててしまう。
しかし、F母さんと同級生Tちゃんは近くの売店で、このハブ粉をさっそくお土産として買い求めていた。さすがである。
多幸山窯元
ハブとマングースの決闘を見終えると、お休み処でサーターアンダギーとジャスミンティーをご馳走になり、その先の薬草茶屋では臓器関係によいといわれ、ウコン茶(これは某胃薬と同じ味だった)なるものを飲み(ウコン茶が流行するのはこの後である)、売店にあったウージ(さとうきび)をみんなでがぶりつきながら、琉球焼の「多幸山窯元」へと向かう。
南国的なあたたかさ、力強さ、素朴さに象徴される沖縄の焼き物。琉球村では昔ながらの技法を尊びながら、抱(だち)びんやカラカラといった酒器や、シーサーなどの沖縄ならではの焼き物に加え、現代にマッチした製品も作り出している。
直売店には“まかいもの”とよばれる茶碗、皿、小鉢などの日用品から、抱びんやカラカラ、シーサーなどが豊富にそろっている。N女史が探していた「Vサインのシーサー」もここにあった。
直売店を出ると水牛が歩いて石臼を動かし、乾燥したウージをバキバキくだいていくという、昔ながらの製糖工場が目前に広がっている。ここで記念写真を撮り、出口へと向かう。
結局、ウッチャンナンチャンに出会うことはなく、そんな騒ぎも感じられなかった。
琉球村を離れた私たちは、続いて読谷村にあるチビチリガマへと向かう。
読谷村チビチリガマ
琉球村から、さほど遠くないウージ畑の中に、読谷村チビチリガマはある。沖縄戦の最中、慶良間諸島や伊江島、沖縄本島中南部の激戦地で、住民による集団自決が決行された。実数は不明だが、家族単位で、あるいは壕単位でたくさんの住民が、一斉に手榴弾や刃物、縄やこん棒などで自らの命を絶つという悲惨な光景が繰り広げられたという。その中には母親の手で殺された子どもたちもいるということだ。
チビチリガマは集団自決のあったガマの中では県下最大のガマで、戦争が終わって38年もの間タブーとされていたため、現在もガマの中には当時使用していた日常品、集団自決をされた方々の遺骨などがたくさん残っているという。
ガマへはちょうど川土手から下へ降りていくような感じで4~5mの階段を降りる。うっそうと生い茂る背の高い草木の中に、そのガマは大きく口をあけている。
ガマの中は思ったよりも狭い。しかも奥へ進むにしたがって、どんどん天井が低くなっている。
同級生Tちゃんが、しゃがんで手を合わせている。ここでいったい何人の人がおびえながら生活をし、苦しみ、病気になり、悲しみ、けがをし、死を目の当たりにし、知り合いや家族の命を奪い、自らの命を絶ったのだろう…。
ガマの中に無造作に転がった石は、きっとここであったことをすべて見ていたのだろう。いまでもそのあたりの砂の中をまさぐれば、遺骨や、生活用品が出てくるのだろうか?
そんなことを考えていると、なんとなく息苦しくなってきたので、私はガマの出口で手を合わせたあと、もときた階段をかけのぼった。
ガマにいるみんなを待つ間、車の横でぼんやりと空を眺めていると、大きな音をたてて頭上を飛んでいった飛行機から、降下訓練のパラシュートが飛び出していくのが見えた。
ウージの森で
ガマのまわりには広大なウージ(さとうきび)畑が広がっている。ガイドさんの説明によると、背丈が1mくらいのものは今年植えたもの。3mくらいに成長している2年目のものは、来月(1月)になると収穫されるのだそうだ。誰も知らないだろうと「さとうきびの収穫時期って、いつか知ってる?」と質問してみたところ、A師匠にあっさり、「来月じゃろ」と当てられてしまった。なんとA師匠は大学時代、ここ沖縄でウージ収穫のアルバイトをしたことがあるのだそうだ。さすが師匠!
ところで、ウージを植えるときは、よく育ったウージを20~30cmに切り、それを無造作に土にさしておけばOKなのだそうだ。手入れも何も要らない。そのままの状態で2年もすると立派なウージになるのだそうだ。
これはさっそく広島に帰ってから試してみたが、持ちかえったのが冷凍されていたウージだったためか、残念ながら失敗してしまった。
みんながガマから戻ると、車はすぐにスタート。国道58号線を再び那覇市へと向かう。
車の中では、沖縄ではどのプロスポーツが人気があるかという話となり、サッカーも人気は高くなってきたけれど、まだまだプロ野球人気にはかなわないという話となる。どのプロ球団がいちばん人気があるのかをたずねると、カープをはじめ、沖縄ではたくさんの球団がキャンプをおこなっているので、地域をあげてそれぞれ応援しているが、やはり全県的にはジャイアンツの人気が高いということだ。
話はウチナーグチ(沖縄の方言)にも広がり、話せる人がだんだん少なくなってきていること、母音が(あ・い・う)の3つしかないことなどを教えてもらう。例えば、目(メ)はミーに、雨(アメ)はアミに、風(カゼ)はカジとなるのだそうだ。
ところでこの「よじれ旅」のタイトルにある「めんそーれ」というのは、「いらっしゃい」という意味だ。
那覇市に入ると、それまでと違って、あたりは街の雰囲気となる。これから「首里城公園」に向かうのだが、その前に市内にある「サンゴセンター」のレストランで昼食である。実質的にはこれが沖縄での最後の食事となる。夕食はもう、飛行機の機内食だ。
昼食会場へと急ぎながら、通路にあった冷蔵庫に目をやると、そこにはなんとガラスビン入りのサントリーのウーロン茶がある。珍しさで少々どきどきしてしまう。実は私、ガラスビンのコレクターなのだ。外国のビールのビンを中心にいろいろと集めている。少なくともこれは広島では見たことがない。思わず欲しくなってしまう。
食事はジンギスカン風の焼肉。よくわからないが、ひょとしてこれが沖縄風の食べ方なのだろうか? それとも札幌ラーメンが流行っていたことと関係しているのか? ところで、私の座ったテーブルは、なぜかどこよりもはやく食べるものがなくなってしまった。ちなみに同席していたのはA師匠とN女史だ。
首里城公園
食事を終えると、バラバラと各自でショッピングを始める。私はA師匠と話しこんでいて、席を立つのがいちばん遅くなる。見ると、近所のSさんが大事なビデオカメラを置いたまま席を立っている。M父さんと共に食欲もないらしく、まだ本調子ではないらしい。やはり深酒はよくない。
ショッピングのあと、再び車に乗りこみ、大渋滞した街中を「首里城公園」へと向かう。先行の車がどうも道を間違えたらしく、この車の案内の人は「こっちの道じゃないのに」などと、ぶつぶついいながら運転している。
「首里城」は5世紀続いた琉球王朝のシンボルで、第2次世界大戦では陸軍司令部となり破壊されたが、1992年にようやく復元された。真紅の華麗な宮殿には、償えない過去への深い哀惜と、沖縄の未来への希望とがこめられているのだという。
車は城の西側にある守礼門の前で止まる。この「守礼」というのを辞書で引くと、「礼儀作法を正しく守ること」とある。そういえば、この首里城にはほとんど兵士がいなかったのだという。琉球王国は不戦主義を貫く、世界でも稀な王国だったのだ。
門の横には紅型の衣裳を身にまとい、髪にはジーファーという、琉球王朝を象徴する、おなじみのスタイルの綺麗なお姉さんが立っているが、これはやはりいっしょに記念写真を撮ったらウン千円というものらしく、私たちが門をバックに写真を撮ろうとすると、すばやくファインダーの外に出ていってしまう。
小高い丘の上にある「首里城」までは石畳の道を歩く。
F母さんは見学地があとわずかになってしまったこともあって、大量に残ったカメラのフィルムをなんとか使いきろうと、いろいろなところで写真を撮りまくっている。ガイドブックに載っているようなところではすべて記念撮影をし、みんなすっかり“ただの観光客”と化してしまう。
「奉神門」を通りぬけると御庭に出る。ここを取り囲むように建った「南殿」、琉球王朝最大の木造建築である「正殿」、そして「北殿」は復元され、現在は展示室となっていて、琉球王朝の数々の文化遺産が展示されている。
最後の展示室である「北殿」から外に出て「右掖門」とよばれる通用口のところから、眼下に広がる那覇市内の景色を眺める。
やわらかな午後の日差しを浴びながら、「最終日の今日がいちばんいい天気だったなぁ」なんて思っていると、急に旅も残りわずかだということに気がつき、なんとなく、祭りの後のような寂しさを感じてしまう。
全員が展示室から出揃うと、「久慶門」を通って、石畳の通路を出口へと向かう。
ふと、石垣に目をやると、全体の60%くらいが修復されているのがわかる。それほど徹底的に破壊されたということなのだろう。
マチグヮー
「首里城」から外に出て車に乗り込み、少し時間があるということなので、「マチグヮー」とよばれる牧志公設市場によってみることにする。
国際通りの入口まで来ると渋滞に巻き込まれる。ゆっくりと通りを進んでいると、ゲームセンターの前にあるUFOキャッチャーをしていた男が、何を思ったのかゲームの最中に突然、まるで誰かに追われているかのように逃げ出してしまう。あっけにとられながらそのまま見ていると、なんとアームは見事に景品をキャッチ! Uちゃんが「あれ、とってきてもいいかね」と興奮しながら言い、O姉さんや私、それに車の運転手さんまでもが「行って、とっておいで!」とたきつける。Uちゃんはすばやく車から降り、撮りだしグチから景品のおもちゃを取り出すと、満面に笑みを浮かべながら車に戻ってくる。
それにしても、逃げていった男はいったい何者だったのだろう? いまだに謎だ。
沖縄の胃袋とも称される県内最大の市場群「マチグヮー」。国際通りから一歩中に入った牧志公設市場一帯は、沖縄県民のたくましさを感じさせるエネルギーに満ちている。
「マチグヮー」は戦後のヤミ市から発展した庶民の市場で、後に那覇市の管理下に置かれ公設市場となった。国際通りと時を同じくして、戦後めざましい復興をとげた地である。
赤や青の南国っぽい色鮮やかな魚や、フルーツが店先に並ぶ様は、なんとなく東南アジア的な匂いもして、やり取りする人々の姿も実に生き生きとしている。
私たちは国際通りの、市場に通じる路地でほんの一瞬車を止めてもらい、ぞろぞろと街へと繰り出した。30分後、再びこの場所で車に飛び乗る手はずだ。
車を降りると、すぐそばに正月飾りを売る露店が出ている。広島でも三原あたりにある横長の飾りとよくにていて、みかんと黒い炭のかけらがついている。
みんな思い思いの場所に出かけていき、私はすぐ前の建物にCDショップがあるのを見つけて、ふらふらとそこに入った。「マルフク」という沖縄民謡だけを扱った地元レーベルがあると聞いていたからだったのだが、私が入った店は、広島にもあるチェーン店の輸入CDショップで、目当てのものは結局探し出せなかった。しかたなく定期購読している音楽雑誌を手に入れたりしたが、そんなことをしているうちに残り時間もわずかとなり、せっかく「マチグヮー」の近くまできておきながら行かないという、なんとも間抜けなありさまとなってしまった。
約束の時間通りに2台の車がやってきて、待機していた私たちはすばやく乗り込む。その間約20秒。この通りは本来、駐停車禁止なのだ。
旧海軍司令部壕
車はそのまま沖縄県庁、那覇市役所を横目で見ながら市街地を抜け、明治橋を渡って小禄本通りへ。そこからは細く曲がりくねった道を高台にある最後の目的地「旧海軍司令部壕」に向かってどんどん登っていく。
この壕は太平洋戦争中、最も熾烈を極めた沖縄戦において、日本海軍沖縄方面根拠地隊司令部のあったところで、司令官他多数の将兵が、1945年6月13日、午前1時ごろに壮烈な最後をとげたのだという。
壕には、司令官室などの各室が当時のままで残されており、将兵が鍬やつるはしで掘ったあとや、司令官室には大田司令官の辞世の句が、白壁に鮮やかに残されている。
壕のある高台はひっそりとしていた。地上にある資料館をざっと見て、壕の中に入る。昇降廊とよばれる階段を下に降りていくと、地下をたくさんの通路が走っている。通路の所々が広くなっており、それが部屋になっていたようだ。
現在公開されている壕の長さは275m。実際には400m近くあるそうだ。
しばらく歩くと通路の横に小さな医務室があった。1945年には、きっとここに折り重なるように、いや、ここだけじゃなく壕のあちこちにたくさんの傷ついた人たちが収容されていたのだろう。満足な処置を受けることもできずに…。
沖縄戦による戦没者
日本側 188,136名
他都道府県出身者(軍人軍属)65,908名
沖縄出身(軍人軍属) 28,228名
沖縄出身(戦闘参加者) 55,724名
一般沖縄県民 38,276名
米軍側 12,520名
合計 200,656名
壕から出ると、すでに日は西に傾きかけていた。沖縄での見学もこれですべて終わりだ。私は木陰にあったテーブルに着き、みんなが出てくるのを待った。やがて壕から出てきたみんながテーブルのまわりに集まってくる。私の横にはN女史とUちゃんが座り、前には近所のSさんとA師匠、そしてO姉さんが座った。M父さんは私の横でタバコをふかしている。ここでもやっぱり土産物屋に入ってしまった同級生TちゃんとF母さんを、みんなは「今度は何買うんじゃろう?」なんていいながら、にこにこ笑って待っている。
ここでF母さんに撮ってもらった写真を見ると、なんとなくさびしそうな私が写っている。旅の終わりはいつも寂しい。それが楽しい旅ならなおさらだ。 車はさっき登ってきた坂道を、今度はゆっくりと降りていく。赤信号で止まったときに、私はカメラに残っていた最後のフィルムで、旅の大部分を過ごしたこの車のメンバーを写した。
車は10分ほどで那覇国際空港に到着する。
車を降り、トランクから荷物を取り出して、3日間お世話になった案内の人たちにお礼を言う。
小さくなっていくワゴン車を見送りながら、私は覚えたてのウチナーグチで「ニフェーデービタン(ありがとうございました)とつぶやいた。
帰りたくない
広島への飛行機は午後5時50分発だ。出発までしばらく時間があり、私たちはレストランや売店のある2階のフロアで、ぶらぶらしながら時間をつぶすことになった。
「ANA280便、欠航にならんかねェ」
「そしたら、もう1日沖縄にいられるのに」
「広島空港が大雪かなにかで着陸できんとか」
「そうそう、福岡か大阪におりることになって、そこでもう一泊なんてのもいいね」
そんな冗談をN女史と言い合っているうちに、「それ、いいね!」とみんなが話に加わってきて、「福岡なら、みんなでラーメンを食べに行こう!」などと盛り上がってしまう。やはりみんなも旅の終わりの寂しさを感じているのだ。
機内では軽食も出るが、それだけではきっと我慢ができないと感じ、売店でオリオンビールとホットドッグを買い、軽く腹ごしらえする。みんなも同じ考えのようで、似たようなものを注文している。
しばらくすると搭乗開始を知らせるアナウンスがあり、みんなぞろぞろと搭乗口へ向かう。私は半分ほど残っていたホットドッグをビールで一気に流し込み、慌ててみんなを追いかける。
そして広島へ
夕闇で真っ暗な中、飛行機は那覇空港を飛び立つ。窓からあたりの様子がよくわかる昼間のフライトよりも、こうして真っ暗な中でのほうが恐怖感が少ない。
水平飛行にうつったあと、Uちゃんのところにスチュワーデスさんがやってきて、プレゼントのおもちゃを渡してくれる。Uちゃんは何度でも描いたり消したりのできる「おえかきセット」を手に入れており、私はそれにUちゃんの似顔絵を描いてあげたりする。
しばらく飛んでいると、F母さんが「あそこに月が見えるわ」と、窓の外を指差す。なるほど、見ると月が出ているが、なにか形が変だ。
「あの月、矢が刺さっているように見えるねェ」と同級生Tちゃん。
「ずっと飛行機についてきているように見えるんじゃけど」とO姉さん。
そうこうしているうちに、機内食の時間となり、後方からスチュワーデスさんが「サンドイッチになさいますか? 和食になさいますか?」と聞きながら近づいてくる。
私はさっきホットドッグを食べているので、今度は和食にした。
食べながら隣にいたN女史と、「Tちゃんに、もう1つ機内食を頼ませよう!」と、わるだくみをし、「ねぇ、Tちゃん。もう1つ機内食頼んでみてくれん?」と、小声でそそのかしてみる。
まさか本当にやるとは思っていなかったのだが、素直なTちゃんは、機内食を配り終えたスチュワーデスさんに、「もう1つもらえませんか?」と、真顔で聞いてしまったのである。
スチュワーデスさんは一瞬目が点になってしまったようだったが、すぐに笑顔を取り戻し、ていねいに「もう残っていないんですよ。すいません」と言って去っていった。
私とN女史は、もうおかしくて、「本当に言うなんて!」と、顔を見合わせて笑った。Tちゃんは私たちが大笑いしているのを見てだまされたことに気づき、「もう、あんたらは信じられん…」と言ったっきり、口をきいてくれなくなってしまった。
「あの月、まだついてきよるよ…」
気がつくと、窓の外の月は、まだ同じ場所に見える。
「やっぱり矢が刺さったように見えるよ」
なるほど、ここから見ると、この月には本当に何かが刺さったように見えるのだ。
F母さんなど、本当に悩んでしまって、「変ねェ…」と、たびたび窓の外を眺めながら、「ふぅ~」と、ため息をついている。
「ポン」という音がして、ベルトの着用と禁煙のサインが出た。いよいよ着陸だ。
機長によると、広島は快晴で、2日前の雪はもうほとんど残っていないという。
モニターには、オレンジ色のライトに照らされた滑走路が美しく闇の中に浮かび上がっている。いつものように息を止めて身構え、着陸の瞬間を待つが、意外にあっさりと着陸してしまう。
のろのろと滑走路を走る機内から、窓の外を見ると、なんとさっきの月が、まだ同じ位置にあるではないか!
「あれ…月じゃなくて、翼の灯りじゃないの…」
少し明るい滑走路上だからわかったのだが、今まで「月だ、月だ」と騒いでいたのは、翼についている灯りだったのだ。反対側の窓を見ると、こちらにも同じ物が見えている。
今まで大の大人がこれのために「変だ、変だ」と大騒ぎしていたのかと思うと、おかしいやら、恥ずかしいやらで、みんな笑いが止まらなくなってしまった。
空港にはO姉さんの家族が迎えにきていた。O姉さんとUちゃんとはそこでお別れをし、残りのメンバーはそれぞれ近所のSさん、A師匠の車に分乗し、空港を後にする。
車の中から見なれた景色を見ていると、沖縄での出来事がまるで夢のように思えてくる。
「あ~ぁ、なんか現実に引き戻された感じ」と、荷物を抱えたままでN女史が言う。
私の頭の中では、また「ハイサイおじさん」や「花」のメロディーがリフレインを始めた。
私はどうやら沖縄病(沖縄を愛してやまない人のこと)にかかってしまったようだ。そのうちギターではなく、三線(さんしん)を持って現れるかもしれないよ。
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