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めんそーれ沖縄よじれ旅①「雪の広島から南国沖縄へ」 [めんそーれ沖縄よじれ旅]

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雪の広島から南国沖縄へ

 ひこうきの機首が、なんとなく下がっているような気がして窓の外に目をやると同時に、飛行機は雲の中に入った。雲の上と違って雲の中はものすごくゆれる。まもなく着陸だ。
 大雪の広島から沖縄まで約1時間半。前日も、前々日も悪天候のために、このANA277便は欠航となっていたので、はっきりいって今日もダメだと思っていたのだが、3日続けて欠航はさせられないという意地もあったのか(あるわけないか…)、今日は雪の広島空港からなんとか飛び立ち、那覇空港上空までやってきた。
 沖縄の天気はあいにく曇りだったが、それでも上空から見る海はとてつもなく綺麗なエメラルドグリーンだ。
 機内にあるモニター画面に、目前に迫った那覇空港の滑走路が映し出される。滑走路がぐんぐん近づいてくると、さすがに緊張する。なれればそうでもないのだろうが、飛行機に乗ることなどめったにない私は、着陸と離陸の瞬間にはいつも息を止めて身構えてしまう。
 「ガタン!」という大きな衝撃とともに車輪が地面に着くと、すぐに強烈なブレーキがかかる。身体が前の方にもって行かれそうになるのをこらえていると、そのうちスピードが緩み、機内にもほっとした空気が流れる。
 那覇空港はシーズン・オフだからか、なんとなく寂しい雰囲気だ。N女史と「モスクワ空港がやっぱり寂しくってねー」「そうそう、私なんか泊まるところがなくて、あそこで一晩明かしたのよー」などと話しながら、預けた荷物を受け取りに行く。だがしかし、いくら待ってもN女史の荷物だけが出てこない。受け取り場所にわれわれのグループだけが(M父さんは気づかずにさっさと出ていってしまっていたが)ポツンと取り残されてしまった。係りの人に事情を話すと、ごそごそとどこからか、かばんを探し出してきてくれた。なんでも添乗員の荷物と一緒になっていたらしい。
 空港から外に出るとさすがに暖かい。やはり南国である。「わぁ~、やっぱり沖縄じゃね~」「ほんまにね~」と、広島弁まるだしの同級生TちゃんとF母さん。近所のSサンはさっそくビデオを回している。O姉さんについてきた娘のUちゃんは、さっそく「記念写真撮ろうよ!」なんていっている。
 今回の旅は、2泊3日で、シーズンオフの沖縄を満喫しようというものである。A師匠を含む9人は、お願いしていた2台の車に分乗し、まずは「ひめゆりの塔」へと向かった。


ひめゆりの塔

 私はF母さん、O姉さんとUちゃん、N女史らと同じ車になった。案内の人の話によると、今日はこの冬一番の寒さだという。
「いやぁ、広島から寒さを運んできてしまいましたねぇ」
 などと話しながら、車は那覇から海岸線を走る国道331号線を南下して、沖縄南部の糸満へ向かう。
 糸満は追い込み漁で栄えてきた漁師の町だ。糸満という名は、かつてフィリピン、インドネシアまで出かけた漁師たちが、現地でイーストマンと呼ばれたことに由来しているという。
 かつて米軍の猛攻撃のなかを、10数万人の人々が逃げまどったというこの沖縄南部一帯。このあたりには、ひめゆりの塔、平和祈念公園、健児の塔といった戦跡が集中している。
 車から外を眺めていると、このあたりには、ほとんど隠れる場所がないことに気づかされる。つまり、山も谷も林もない見通しの良い平地なのだ。「こんなところで攻撃にさらされたら、地獄だろうな…」などと考えているうちに「ひめゆりの塔」に到着した。
 「ひめゆりの塔」は沖縄戦で従軍看護婦として犠牲になった「ひめゆり学徒隊」の慰霊塔である。90日あまり続いた砲撃で、南部一帯は巨大な採石場のような残骸と化し、犠牲となった県立第1高女、沖縄師範学校女子部の職員・生徒219名の遺骨は山野のあちこちに転がっていたという。
 入口でF母さんと同級生Tちゃんが花束を買い、慰霊塔に供えた。私もそっと手を合わせてから、隣接する「ひめゆり平和祈念資料館」へ入った。
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「ひめゆり平和祈念資料館」の外観は、ひめゆり学徒が学んだ校舎を模して作ってあるのだという。
 ここには生存者による証言、写真、ジオラマ、その他多くの資料が展示されているが、中でも犠牲となった200余名の遺影と、生き残った生徒たちの証言をまとめた本の置かれた第4展示室と、重い心に安らぎをもたらすような、中庭の花園の見渡せる第5展示室が印象的だった。
 私たちは、真実から目をそらされ、人間らしい判断や思考、生きる権利さえも奪われ、すべての人たちを戦場にかりたてた、あの時代の教育の恐ろしさを決して忘れてはならない。
 『日々平和を守る勇気を持ちつづけてほしい』という、元ひめゆり学徒の引率教師の言葉が心に残った。


沖縄そば

 資料館を出ると、いよいよ沖縄ではじめての食事である。沖縄で食べるべきものはたくさんあるが、やはり一番に「沖縄そば」を食べねばなるまい。
 沖縄のそばは、そばといってもそば粉は一切使用しておらず、小麦粉100%で、少し黄色っぽい麺である。見た目は幅の太いきしめんのようなラーメンといった感じで、だし汁はとんこつ、かつおの風味もする。
 昼食会場は「レストランひめゆり館」である。さっそく「沖縄そば」を注文し、しばらく待つ。
 「沖縄そばとソーキそばって、違うものなんかね?」などと話しているうちに、お目当ての「沖縄そば」が運ばれてきた。
 「これを少しかけてお食べ下さい」
 と差し出されたのは、名前は忘れたが、泡盛に唐辛子を漬け込んだという調味料である。確かに適量入れるとうまい。が、N女史はたくさん入れすぎて、みんなに「かえて~」といってまわっていた。


平和の礎

 「沖縄そば」を食べ、腹ごしらえしたあと、車で15分ほど離れたところにある平和祈念公園へと向かう。
 平和祈念公園は沖縄最後の激戦地となった摩文仁の丘にあり、休日ともなると緑の芝生の上で弁当をひろげる家族連れの姿が目立ち、戦いの悲惨な傷跡は微塵も感じられない観光地となっている。しかし、園内に建つ沖縄戦の貴重な資料を集めた資料館や、平和祈念堂、平和の礎には、過去の痛ましい記録がしっかりと刻まれている。
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1995年8月に完成した「平和の礎」には、県ごとに、あるいは国ごとに、沖縄戦で犠牲になった人たちの名前が、屏風のように立てられた黒い御影石に刻まれている。礎は海を臨む丘の上に扇形に並べられ、今はやさしい潮風を受けている。扇の要の部分には噴水のある広場があり、そこからは砲弾のあとの残る海岸線や、美しいさんご礁に囲まれたエメラルドグリーンの海を見ることができる。
 礎に刻まれた名前を見ながら、戦争でめちゃくちゃにされてしまった、この見知らぬ人たちそれぞれの大切な人生を思うと、なんだかやりきれない気持ちになってくる。
 Uちゃんの提案で丘の上から見えた海岸にみんなでおりることにした。海岸までの細い道からは、あちこちに壕もみえる。
 海水はやはりものすごく綺麗で、砂浜にはあちこちに珊瑚のかけらも転がっている。
 A師匠と私は珊瑚の上を、ひょいひょいと飛び移りながら、水の中にいる真っ青な魚や、黒く大きなナマコを捕まえたりした。
 あやうい足取りでここまで来ようとするUちゃんに、「落ちんさんなよ~」というO姉さんの大声がとぶ。
 空を見上げると、今にも泣き出しそうな曇り空である。


不思議の街、沖縄は寒かった

 小さな雨が落ちてきたので、車の待っている駐車場へ急いだ。さっきから姿が見えないと思ったら、F母さんとN女史は、すでに駐車場にある売店で、アイスクリームなんぞを買って食べている。N女史の食べているアイスクリームは「紅いも」のアイスクリームで、赤紫色をしている。なんでも紅いもは沖縄の名物らしい。そういえば、ここへ来る途中にも道端で袋詰にされ、売られているのを多く見かけた。ただ、これは本土への持ちこみは禁止されていて、まさに沖縄でしか食べることができないという「幻のいも」なのだ。

 車はこれから、今日の宿である「那覇セントラルホテル」へと向かう。車から外を眺めていても退屈なので、案内の人に思いつきであれこれと質問をしてみる。
 「コンビニエンスストアが見当たらないけど、あるんですか?」
 「少ないけどあります」
 「酒屋がないですね」
 「えぇ、お酒はスーパーで売ってますから」
 「札幌ラーメンの店が多いですね」
 「すごく人気があるんです」
 など…。
 信号待ちをしているとき、聞いていたラジオのDJが、「今日は寒いですねェ」といったので、思わずみんなで顔を見合わせ、「これで寒いんだって!」と笑ってしまった。案内の人が笑いながら、「沖縄に慣れたら、これが寒く感じるようになります」と教えてくださったが、これはすぐに実感することになる。

 「那覇セントラルホテル」は、県を代表するメインストリートである国際通りのすぐ近くにあり、2分も歩くと都会の洗練されたムードと、たくましい庶民のパワーがごちゃ混ぜになり、独特の雰囲気を漂わせた繁華街へと出ることができる。
 今夜は近所のSさんと同室だ。部屋はビジネスホテルのようだが、寝るだけだから問題ない。部屋に荷物を置き、しばらくしてから、夕食と琉球舞踊を見るため「料亭那覇」へと向かった。


料亭那覇

 「料亭那覇」には、準備してもらったマイクロバスで向かう。はじめての土地、しかも夜なのでどこをどう通っているのか、まったくわからない。帰りにどこかで遊んでやろうと、楽しげなところをバスの中から探したが、にぎやかそうな場所があまりない。

 着いたのは落ち着いた雰囲気の店である。着物姿の仲居さんに20畳ほどの部屋に案内され、女性と男性で向き合って座る。「まるでフィーリングカップル5×5じゃねぇ」と誰かが言って大笑いとなったが、若い人にはなんのことだかわからないだろう。
 乾杯のあとしばらく飲み食いしていると、待ってましたの琉球舞踊が始まった。
 三線2台の伴奏と歌にあわせて、琉装に身を包んだ舞妓さん(?)たちが、四ッ竹を打ち鳴らしながら舞う。どことなく庶民的な感じがして、とても好感が持てる。
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 美しい女性の踊りを見ていたせいか、なぜか突然鼻血が出てしまい、大急ぎでお手洗いへと向かう。ここで私は不思議なものを目撃した。なんと小用の便器が、斜めに切った竹筒を大きくしたようなもの(陶器製)なのである。鼻血をぬぐったあと、さっそく使用してみる。

 舞踊と料理をたっぷりと堪能したあと、舞妓さんたちと記念写真におさまり「料亭那覇」をあとにする。ホテルに戻ったのは9時ごろだっただろうか。このあと、O姉さんとUちゃん以外のメンバーは、再び夜の街へとくり出し、なんと火事の現場に居あわせたり(なんと隣の店だった)した。


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